
【PROFILE / HISTORY】
国府 利征 ”Toshiyuki Kokubu”
(Music Producer / Pianist / Keyboardist / Composer / SAMURAI LABEL Inc. Founder)
■ 1970年代初頭、13歳の「神童」伝説と鮮烈なデビュー
9歳で父からピアノの手ほどきを受け、その規格外の才能は1970年代初頭、わずか13歳の頃にはすでに関西の音楽シーンで轟いていた。「とんでもないヤツがいる」「神童が現れた」――。後にSOOO BAAD REVUEの残党である土居”Baker”正和、永本忠らとバンドを組んだ際、当時の関西の音楽プロデューサーから「13歳の頃からお前のことは知っている。あの頃、国府は『神童』と呼ばれ噂になっていたんだ」と明かされるほど、まだ何者でもない10代前半にして、すでに業界のトップ層の間で畏怖の的となっていた。
その噂を裏付けるように、ピアニスト/鍵盤奏者としての本格的なキャリアはわずか15歳の終わりに幕を開ける。強靭なタッチのピアノを主軸としつつ、ハモンドオルガンやフェンダー・ローデス、シンセサイザーを自在に弾き倒すそのプレイスタイルで、ほどなくして日本のブルースハープの大御所であるウィーピングハープセノウ(妹尾隆一郎)に見出され、日本におけるブルースの黎明期を最年少のプロとして駆け抜けた。
16歳の頃には、佐藤博や鈴木茂が演奏するライブハウスにふらりと遊びに行ってはステージに飛び入りしてピアノを弾きまくるという、恐るべきティーンエイジャーとして現場の空気を揺らしていた。
そして17歳、「久保田麻琴 & SUNSET GANG」の初レコーディングに参加。ハワイの「サウンド・オブ・ハワイ・スタジオ」で細野晴臣と初の顔合わせを果たし、ピアニスト/鍵盤奏者として参加。日本で初めてニューオルリンズ・スタイルのブルースピアノを弾きこなす「神童」は、日本の音楽シーンに新たな扉をこじ開けた。
同バンドのアルバム『セカンド・ライン』のレコーディングは、まさに日米の伝説が交差する歴史的セッションとなり、ザ・バンド(The Band)のレヴォン・ヘルム(Levon Helm)をはじめ、スタックス・ソウルの伝説的ギタリストであるスティーヴ・クロッパー(Steve Cropper)、スワンプ・ポップの巨匠ボビー・チャールズ(Bobby Charles)、本場ニューオルリンズの鍵盤奏者ロニー・バロン(Ronnie Barron)といった海外の巨星たちと堂々たる共演を果たす。国内からもティン・パン・アレーの林立夫が参加するなど、錚々たる顔ぶれと共に極上のルーツ・ミュージックを盤に刻み込んだ。
■ 日本のグルーヴの屋台骨と「ソウルの共鳴」
1970年代、日本の音楽シーンに多大な衝撃を与えたモンスターバンド「SOOO BAAD REVUE」の鍵盤奏者として活躍。さらに1980年代に入ると「Voice & Rhythm」に加入。旧知の間柄であった石田長生や金子マリらと共に1stアルバムのレコーディングを敢行し、日本のソウル、ファンク・ミュージックの土壌を強靭に耕し続けた。
そのキャリアを通じて、山下達郎、ジョニー吉長、Char、山岸潤史、村上"ポンタ"秀一、日野元彦、高水健司など、国内最高峰のトップアーティストたちと数え切れないほどの歴史的セッションを重ねていく。
ここで特筆すべきは、同時代を戦ったミュージシャンたちへ与えた影響の大きさである。金子マリ&バックスバニーで鳴瀬喜博らと活躍し、後に「センス・オブ・ワンダー(SENSE OF WONDER)」を率いて日本のプログレ・シーンを牽引することになる鍵盤奏者・難波弘之もまた、国府の生み出すピアノやハモンドオルガンの強烈なグルーヴに多大な影響を受けた一人であった。これは当時の日本の音楽シーンの底流で、国府のプレイがいかに規格外の「本物」として同業者たちに衝撃を与えていたかを物語る事実である。
その圧倒的な現場は常に熱狂と奇跡に満ちていた。ある六本木でのプレイ中、R&Bドラムの最高峰ジェームス・ギャドソンがふらりと現れ、山岸潤史らと共に飛び入りでドラムを叩くという伝説的な一夜を展開する。それは単なる「リスペクト」といった表面的な言葉では括れない、日米の本物同士による「ソウルの共鳴」であった。後のSOOO BAAD REVUE再編ライブにギャドソンが駆けつけるなど、国境の壁を完全に越えた深い間柄へと発展していく。
当時の日本の音楽業界において、これほどまでに海外のトップアーティストたちと日常的かつ対等に「普段着の交流」を深め、共にレコーディングを行い、魂のレベルで音をぶつけ合っていた集団は、彼らをおいて他に存在しなかった。表の歴史には決して出てこない、真実の「日米交流合戦」の最前線がそこにはあった。
■ 海を越えたセッションと、色褪せないバックステージの記憶
その「普段着の交流」から生まれる極限のグルーヴは、必然的に世界の頂点との歴史的セッションへと結実していく。1984年の上田正樹のライブでは、スライ&ロビー(Sly & Robbie)と共にライブレコーディングを敢行。さらにスラップベースの巨匠ルイス・ジョンソンをフィーチャーした『Jazz Funk Masters featuring Louis Johnson - Mo' Funk』のレコーディングにも名を連ねる。
1987年にはボビー・ワトソン(Rufus & Chaka Khan)、マーヴィン・ベイカー、盟友・山岸潤史らと共に、大ヒットゴスペルミュージカル『ママ・アイ・ウォント・トゥ・シング』関連のレコーディングに参加。驚異のハイトーンを誇るディアドラ・ヒックス(D'Atra Hicks)ら世界トップのシンガーたちのバックアップを務めた。後年、ボビーから当時の写真が送られてきた際、両者とも「最高のバンドだったが、女性シンガーの名前が思い出せない」と語り合い、さらに「あのヒゲ面の変な奴は誰だ?」と、一緒に写っているはずの盟友・山岸潤史ですら誰だか分からなかった(笑)という逸話は、世界の第一線で音をぶつけ合った者同士の最高にリアルな勲章である。
1990年代には、モダンジャズの巨星ウォルター・ビショップ・ジュニア(Walter Bishop Jr.)と大規模な野外コンサート会場でワンステージを共にするという歴史的共演を果たす。その会場入りした際、別仕事(沢田研二のバック)でリハーサル中だった村上"ポンタ"秀一が、国府の姿を見つけるなりドラムを叩くのをやめて立ち上がり、「イエー!」と満面の笑みで手を振って迎えたという。当時のトップミュージシャン同士の熱い絆を伝える痛快な一幕である。
その他、当時国府が住んでいた大阪で行われたジョージ・デューク(George Duke)の公演での一幕もある。一人の観客として彼の公演を見に行っていた国府は、突如ステージ上のジョージ本人から「上がって来い」と指名を受ける。そのままステージへと上がり、ジャズ・ファンクの神髄と熱狂的な飛び入りセッションを展開するという離れ業も演じた。
スティービー・ワンダーの秘蔵っ子シンディ(CINDY)、ヘッドハンターズのポール・ジャクソン、さらにソウル・ギターの巨匠デヴィッド・T・ウォーカーと音を交わすなど、ここには到底書ききれないほどの歴史的セッションを文字通り「生きて」きた。
■ 2026年現在 〜 SAMURAI LABELの立ち上げ。
作られた枠組みに魂をパッケージされることを徹底して拒み、誰にも媚びることなく、自己の音楽を痛快に楽しむ生き方の中で、極限の「世界基準」を追求し続けた半世紀。
現在、パウル・ヒンデミット(Paul Hindemith)の理論である「Extended Harmony」の概念を武器に、一切の妥協なく世界へ直接音楽を提示する牙城「SAMURAI LABEL Inc.」を立ち上げ、平山惠勇(Drums)、藤村竜也(E/A.Bass)と共に結成した超弩級のコンテンポラリー・ジャズトリオ「THE SUPER 3®」のデビューアルバムリリースに向け、圧倒的な衝撃を世界に放つべく陣頭指揮を執っている。

–1975's− Teruyuki Kokubu

SOOO BAAD REVUE

Toshiyuki Kokubu

